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Takahashi Yasuyuki
足は肩幅よりやや広く開き
背筋はあまり伸ばさず
首から上を軽く右に傾けて
両手の平を内側に向け
ビキニラインに添って固定
両足を軽くがに股にし両肘を肩の高さまで勢いよく挙げる
そして下げる
その行為を力の続く限り
繰り返す 繰り返す
コマネチ!コマネチ!!と
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around 1980@chiba

小学3年からの3年間は月〜金の18:00〜20:00までと日曜の8:00〜10:00までは
地元の「朝日スイミングクラブ」で泳ぎまくっていた。

いわゆる選手コースというやつで
週2回分の月謝でほぼ毎日泳ぎを習えるという
今考えるととってもお得なコースであるが遊びたい盛りのくそガキにとって
それはとてもヘビーな任務であった。

学校が終わり18:00までには家からチャリンコで15分くらいかけてプールにむかい
海パン一丁になりシャワーを浴びてプールに飛び込んでなければいけなかったので
学校が終わってから友達ん家で遊ぶ時間があんまりなかったのだ
しかも海パンはいわゆるビキ二型のモッコリパンツだった

当時は「スポーツ=根性」的な考え方が常識だったので練習もキツかった
あと先生が叩いたり蹴ったりが当たり前だったので練習メニューをクリアできないと
泳ぎきって壁にタッチした瞬間「拳骨」をおとされたり
できない回数分練習後に「便所サンダル」でケツを叩かれたりした
「コースロープの根元の鉄の部分」で頭を叩かれるのが一番強力だった

しかし!本当にキツかったのは合宿の時だった!
1回でもメニューをクリアできないと
練習後居のこりで「バッタ(バタフライ)1500m」とクリアできなかった分のメニューやり直しってやつが最狂最悪にキツかった〜ゴーグルに涙ためながら泳いでた
子供ながらにそんなの無理だよ〜やらせられる分けないべ〜と思ってましたが甘かった

↑みたいな感じだったので友達とあんまり遊べなかったんだが
「つっくん」という奴が「コンバトラーVつくったから家で遊ぼーよ」
と誘ってきたときの事は今でも覚えてる

「なに!コンバトラーVをつくった?なにでどうゆうふうにどのくらいの大きさの?」
と少年オレは花の子ルンルンなみにルンルン気分で大和田なみに心臓バクバクで
「つっくん」の家のドアを叩いた
「つっくん」は快く少年オレを自分の部屋にとおしてくれたんだが、
そこに「コンバトラーV」の姿はなかった、
オレは「つっくん、コンバトラーは?」と問いかけると
「ちょっとまって今みせるから」と押し入れの引き戸を開けじらすように
コンバトラーがオレの視界に入らないように慎重にゆっくりと
それをドヤ顔よろしくお膳の上に置いた

その瞬間!

オレの中で花の子ルンルンは三つ編みを解いてすかっし屁をしながら走り去っていき
かわりに大和田がドヤ顔で猛スピードの髭ダンスを踊りながらこっちに迫ってきたのだった!まだ陰毛が生える気配もないくそガキのオレにとってその状況はコレ迄に味わった事のない大惨事と化したのであった!

そのブツはブラックやピカソと同様にキュビスム的であり
ポロックやロスコらの抽象表現主義おも内包しダリの超現実主義的世界を思わせる

「コンバトラーV」だったのだ!!!

市販の子供用玩具(ブロック)を使用しほぼ正立方体のデザインで多彩な色のブロックをランダムにちりばめたカラーリングは無雑作のようであるが実に緻密に計算されており全体から神々しいオーラすら発していた!

あまりの凄さにオレはたじろいでしまい

「なにそれ?」と心にもない言葉をあびせてしまったが

「コンバトラーVだよ!」とつっくんは上機嫌だった

つっくん!どんなにがんばっても、それはゴールドライタンがライターの時の
しかも色が金じゃなくてメチャクチャになったやつにしか見えないよ






因に少年オレは「身軽なデブでしたよ」つづく、、、、、


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around 1980

小学生時代前半!この頃、オレは音楽とは全く無縁の生活を送っていた。

両親が音楽好きで家ではいつも音楽が流れていたというのとは全く逆で
音楽が聴ける装置は母親が友人に無理矢理?買わされた子供向け英会話教材に付属してきたスピーカーが1個しかついていないラジオ無しカセットデッキだけであった。
そのカセットデッキでオレと妹は2段ベッドの上と下で毎晩寝る前に
「英語カセット」を聴いていたのである。
英語カセットを聴いてる時間に父か母のどちらかが襖の向こうの廊下を挟んだ
風呂場で「ザージャー、カランッ!」と入浴していた時の音と光景を良くおぼえている。

その当時住んでいた家には脱衣所がなかった。もちろんシャワーなんてのも無かった。
給湯器が風呂場から離れた台所にあったので風呂の温度が熱かったら
「けしてー」ぬるかったら「つけてー」と大声で台所にいる母親に告げていた。
風呂場は結構大きな窓があり、床、壁、浴槽がモザイクタイルで
今思うとカッコいい風呂場だったが当時は古くさくて嫌いだった。
そういえば風呂の無い家に住んでる家族も結構いた。
近所に風呂屋は一軒しか無かったが、

あ〜風呂場の話になってしまたなぁ〜

本題に戻ります!
そしてそのカセットデッキからは「英語カセット」のジングル以外の音楽が流れる事は無かったのである。


追記:近所の大工の家が薪で風呂を沸かしていた。
その時周囲に広がる臭いは最近は絶対っていう程かげないにおいだなぁ
夕方の臭いだったなぁ





1972
http://tensaibaka.blog.shinobi.jp/Entry/122/に何時かつながるでしょう

生き物は生まれてきたら絶対に死ぬ、、、よねという事で
明日死んでしまうかもしれないので自伝的なものを書いていこうと思った
と言っても生まれた時の事なんか覚えてないしなぁ
もしかしたら書いてくうちに思い出したりするかな〜


1972年の8月22日
タ◯リとみ◯もんたとシュトックハウゼンと同じ日に生まれたらしい
デブだったらしい、両親は初めての子供で大喜びしたと思う

名前は祖父の名前から一文字とって保って行くで「保行」になった
母は「大郎」と名付けたかったようだが「保行」になった

初めて発した言葉は「ほんだしびっく」だったかな?




around1993

私がヘンテコな音楽に興味を持ったのは確か21,2歳位の頃で
そのころ(今ではいわなくなってしまったと思うんだが)「スカム」といわれていた音楽が
私のまわりではカッコいいとされてました
みんなが知らないマニアックでヘンテコなキツーいやつ程カッコいいみたいな、
全員がLSDくってやってるオーケストラとかキャロライナっていう身体障害者のバンドとかステージでウンコもらしたからZAPPAはカッコいいとかランドセルに鋲打ってスカート履いて部屋真っ暗にしてシドバレット聴いてる奴がカッコいいとか何が良いか解らなかったが非常階段のようなノイズミュージックをカッコいいと言って聴いてる奴がカッコいいとかLSD食ってオペラ聴いてる奴が一番カッコいいみたいな感じで
カッコいいというよりスゲ〜みたいなのがカッコよかったわけです

BOREDOMS(現V∞REDOMS)やSHAGGS、CAPTIN BEEFHEART、JHON ZORN
を聴き始めたのもこの頃でした

私はTbを始めたばかりでJAZZMENにたいそう憧れていたので
意味も解らなくCOLTRANEのSUN SHIPやA LOVE SUPUREME
AYLERのSPIRITUAL UNITYとかDOLPHYのFIVE SPOTとか聴いて
(sax奏者ばかり聴いてたのはJJ.Jhonsonを聴いて超つまらん音楽だと思ったからです)
オレもこんな激しくて厳しくて頑丈なカッコいいJAZZMENに成るんだと息巻いてました
が、、、実際Tbの演奏はと云うとドレミファソ〜ぐらいしか吹けなくて
カッコいいJAZZMENからはほど遠い有様でした
しかも周りに管楽器を吹いてる奴が一人も居なくてどんなもんか全く解らなかった
わたしはTbでも上手くなればCOLTRANEとかDOLPHYみたいに早く沢山の音があの感じで吹けると思っていたわけです


という事で外が明るくなってきたので
つづくかも、、、、




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